
医療用レーザーの治験を受け、太田母斑のあざはレーザー治療でほとんど消えたという福田ゆみ氏。現在は帝塚山音楽療法研究所で音楽療法の実践と研究に取り組んでいる。(出典:福田氏提供)
顔のあざなど、外見に現れる症状は、長く心理的な負担になることがある。治療によって見た目が変わることが、日々の生活や気持ちにも影響する場合がある。
今回、帝塚山音楽療法研究所(大阪市住吉区)の福田ゆみ氏から、自身の太田母斑とレーザー治療の経験について寄稿が寄せられた。
中学生の頃に太田母斑が現れた福田氏は、治療法が十分になかった時代を経て、医療用レーザーの治験に参加した。その経験を「人生の転機」と振り返っている。
「医療用レーザーができるまで待つ」 治療法を探し続けた経験
福田氏が太田母斑を発症したのは中学1年生の頃だった。青いあざは次第に右目の周囲へ広がっていった。
当時、診察した医師から伝えられたのは、まだ良い治療法はなく、将来の医療用レーザーの登場を待つという選択肢だった。
中学1年生の春頃から、右目の下、右目の瞼のところに青い色が浮き出てきました。最初は気にならないくらい、薄い青色でした。
徐々に、右目の周りに、鮮明な青いあざになってきました。まるで、ボクサーが顔にパンチを受けた様でした。
鏡を見るたびに、悲しく、暗い気持ちでした。
通学中の男子中学生には、「おいわ」と言われ、右頬に唾を吐かれたことがありました。
じっと、私は耐えました。
その出来事を知っても、実母は「自分の事で精一杯なの。」「どんどん青い部分が大きくなってる」と意地悪く、冷たく、私に言い放していました。
実父は、娘を叱ったことの無い優しい、愛情深い人でした。社交的な父は、人とのご縁を大切にしており、多方面に人脈を持っていましたので、太田母斑の治療についての情報収集をしてくれました。
父が、大阪市立大学医学部(現在は大阪公立大学)皮膚科の診察を受けられるよう、計らってくれました。
先生は、「今は、太田母斑の良い治療方法は無い。」「将来的に、軍事用レーザーが医療用に開発される可能性がある」「カバーマークというあざを隠す化粧品があるので、それを使って、医療用レーザーができるまで、待つことを勧めます」と教えてくださいました。
診察の帰り道、私は涙が止まらず、嗚咽を漏らして泣き続けたことを覚えています。
あざがあった頃は、写真を撮る前に、あざを隠すファンデーション(カバーマーク)を、青いあざの上に塗っていました。
あざを隠すと同時に、自分の本当の感情を表に出さなくなっていました。その頃の写真は、思い出したくなくて、ほとんど残っていません。
高校生活は自ずと内向的になり、仲の良い友人もいませんでした。孤独で希望が見えませんでした。
大学生活になると、同級生達がファンデーションを塗り始めましたが、あざを隠す厚化粧の自分が嫌でした。「人に言いたい事が言えない」性格が強まりました。
福田氏はその後も、医療用レーザーに関する情報を探し続けた。
大学卒業後、大阪市立大学放射線医学教室教授秘書として就職ができました。その頃の研究論文は、手書きでした。医局のドクターの雑用、色んな手伝いをさせていただけることがとっても嬉しく、楽しかったです。
現在の私の研究活動は、医学教室での経験が大きく影響しています。
インターネットの普及していない頃でしたので、新聞の記事や、病院の掲示を見て医療用レーザーに関する新しい情報に、ずっと気をつけていました。
転機になったのは、新聞で見つけた医療用レーザーの治験の記事だった。福田氏は掲載されていた2つの病院を受診し、大阪市立大学医学部附属病院で治験を受けることを決めた。
ある日、産経新聞に「医療用レーザーの治験が始まった」と掲載されたのを見つけました。やっと!でも嬉しい!わらにもすがる思いでした。
レーザー治療の治験をしている病院名が2つ書いてあったので、両方で診察を受けてみました。私の直感で、大阪市立大学医学部附属病院皮膚科が良いと思い、治験を受けることにしました。
治験を受ける前、福田氏は担当した医師に一つ質問した。
皮膚科の初診の時、質問をしました。
「ご家族のどなたかが、顔に太田母斑があったとします。そのご家族にレーザー治療の治験を受けさせますか?」
答えは「はい、受けさせます」でした。
真皮の部分に届くようにレーザー照射をするという、ごく簡単な説明でした。「顔に貼る麻酔のシートを、近隣の皮膚科医で用意してもらってください」と指示が出たことを記憶しています。
治療では強い痛みや腫れも経験した。それでも照射を重ねるにつれ、青いあざは少しずつ薄くなっていったという。
その時のQスイッチレーザーの痛みは想像以上、かなり激しいものでした。レーザー照射後、皮膚が腫れて、皮膚の形状も歪みました。ドラキュラみたいになっちゃった……ガーゼで覆った顔を見るのはつらいことでしたが、医師を信じて、治療を続けました。
3カ月ごとか、4カ月ごとだったのかは、忘れましたが、毎回、少しずつ青いあざの色が薄くなりました。
青い色が薄くなるに伴って、茶色の小さなシミが浮き出てきました。
青い色のあざが目立たなくなり、茶色の小さなシミが気になり出した頃、太田母斑の治療が終了しました。
福田氏にとって、大きかったのはあざが目立たなくなったことだけではなかった。治療後、自分自身の気持ちにも変化が起きたと振り返る。
太田母斑の治療を乗り越えた後、「私の人生の転機が来た」と気付きました。太田母斑の治療が、心の問題の改善と、楽観的な性格に変化する瞬間を経験しました。ここに焦点を当てた情報が増えるといいな………。そのように願っております。
治療後について

ICPM2026で、認知症の行動・心理症状に対する音楽聴取の臨床的効果について発表する様子。(出典:福田氏提供)
レーザー治療を重ねるにつれ、福田氏の青いあざは少しずつ薄くなり、やがて目立たなくなった。
この経験は、その後の仕事にもつながった。福田氏は約25年前から音楽療法士として活動し、現在は帝塚山音楽療法研究所で音楽療法の実践や研究に取り組んでいる。
太田母斑について「良い治療法がない」と告げられた時の悲しさを今も覚えており、その経験が、治療法が限られる病気や障害を抱える本人や家族の苦しみに寄り添う姿勢につながっているという。特に自閉スペクトラム症(ASD)の子どもと家族を対象とした音楽療法に取り組み、研究報告も発表している。
福田氏にとって、あざの治療は見た目や気持ちを変えただけでなく、その後の音楽療法士、研究者としての活動にもつながる「人生の転機」になった。
